2024.06.23 04:30
さらばフロイト
ラマチャンドラン
いまから50年以上前、とある中年女性が、鋭い診断力で世界的に有名だった神経科医のカート・ゴールドスタインの診療室にやってきた。女性は正常にみえたし、話し方もなめらかだった。おかしいところはどこにもなかった。だがこの女性は、異様な訴えをした。ときどき左手が喉もとをつかんで、自分を絞め殺そうとするというのだ。右手で左手を無理やりつかんで下に引きずりおろさなくてはならないことがよくあるという。ときには危険な左手が、あまりに一途に自分の命を絶とうとするので、手の上に座って押さえこんでいなくてはならなかった。彼女の主治医は、無理もないことだが、情緒障害かヒステリーだろうと判断して、数人の精神科医にまわした。ところがだれも役に立たず、最後にむずかしい症例を診断するという評判のゴールドスタイン博士のもとに送られてきたというわけだった。
ゴールドスタインは診察をして、この患者が精神異常でも情緒障害でもヒステリーでもないことをはっきりと確信した。麻痺や反射の亢進など、明確な神経系の異常もなかった。しかし彼はすぐに、この患者の行動を説明できる事実を思いついた。この女性には、あなたや私と同じように、二つの大脳半球があり、それぞれがちがう精神的能力のために特殊化し、また反対側の半身の運動を支配している。二つの半球は脳梁と呼ばれる繊維の束でつながっており、ここを通して互いに連絡し「同調」を保っている。しかしこの女性は普通の人とはちがって、(左手を支配している)右半球が潜在的な自殺傾向――自分を殺そうとする本物の強い衝動――をもっているらしい。おそらくこうした衝動はもとからあったのだが、脳梁を通して送られてくる、より合理的な左半球の抑制的なメッセージ(つまりはブレーキ)によって、抑えられているのだろう。ところがその脳梁に卒中(血管が詰まる又は破れる)が起こった、とゴールドスタインは推測した。脳梁に損傷があると、左右の脳の連絡は絶たれ、左脳が右脳を抑制できなくなる。そして右脳と、右脳が支配している危険な左手が解放され、自分を絞め殺そうとすることができるようになった、いう推測である。
ゴールドスタインはこの診断にたどりついたとき、きっとSFの世界のようだと感じたにちがいない。しかし女性が、診断を受けてからしばらくして急死したあと(原因はおそらく二度目の卒中発作のためで、自分を絞め殺したのではない)、死後解剖が行われ、ゴールドスタインがにらんだとおりだったことが確認された。脳梁に大規模な卒中が起こっており、左脳が右脳と「会話」をすることも、右脳に通常の影響力を行使することもできなくなっていたのだ。