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2024.11.16 03:45

僕にとっては

 僕にとっては、というところがちょっと引っかかる。客観的には、と言い切れないところが引っかかる。先にどんどん話を進めたいのは山々だが、急ぐ旅路でもないので道草をします。僕は、われ思うわれあり、を直に体験している。誰の 証明も、他に何の証拠も要らない。直に体験しているからである。君もこのことを多分認めてくれることだろう。けれど、僕が直に体験していること、すなわち、僕がつらつら考えていること、それを僕が直に何の証明も証拠もなく現在進行形で実体験していること、と同じ実体験を君にはできないでしょう。君は僕ではないのだから、僕の心の中の同じ実体験を君にはできない。君は僕ではないのだから、想像はできても、僕の実体験を君には実体験できない。せいぜい僕の実体験は、君にとっては多分自分と同じような実体験をしているんだろうなという想像の産物にすぎない。僕が赤信号を見て赤色のランプを見たとき、あ、赤色だと実体験したとき、君は僕が赤色に気づいたんだなと思うでしょう。赤、赤、あの赤色。でもね、僕は色盲で生まれた時から僕の脳内では赤色が緑色に見えているとしたなら、僕の実体験は信号の緑色が見えているのです。夕焼けも、僕は真っ赤な夕焼けだなと言うけれど、脳内の実体験では緑色が見えているわけです。その光景を傍らで見ている君は僕が赤色、君の思っている赤色を見ていると思ってくれるわけです。この緑色の実体験は君にはできない。緑色の夕焼けを君は実体験できない。その赤色と称する緑色の脳内の実体験を君には実体験できない。しかし僕の実体験は君のいう緑色の夕焼けなんだ。この個々固有の実体験をラテン語でクオリアというそうです。そうなんです、クオリアを共有できないんです。僕思う故に僕ありというクオリアは僕の脳内ではできても君にはできない。君にできることは、君思う故に君ありのクオリアしか実体験できないんです。つまり僕ありの実体験は君にはできない。できるのは僕だけであって、僕の存在をクオリアで直に証明も証拠もなしに納得できるのは僕だけなんだ。君は親切だから僕の存在を信じてくれるだろうが、その存在は君の善良な想像上の存在にすぎない。で、あくまで、クオリアによる、われ思う故にわれありは、僕にとってのものでしかないのである。
2024.11.12 04:56

明証性、めーしょーせい

 さて、われ思う故にわれあり、これいいだろうか?。何々がある、何々が存在する、この場合に証明要るか?、どうなんだろうかと考えるうちに、あ、そうか、いま考えてるから、考えてる僕は存在するんだ、ということになるよね。日常生活の中で他人と話しているときには、証拠を見せろとか領収書を見せろとか、いろいろしなくちゃならないけれど、われ思う故にわれありは証明要らんよね、証拠は要らんよね、そんなことを考えてるだけで、それで終わり、われ思う故にわれありだ、ということになるよね。疑いを差しはさめない。疑うだけで、その瞬間に、われ疑う故にわれあり、ということになってしまうからだ。で、われ思う~は、確かなことだ、裁判所に認定してもらわなくても、校長先生に認定してもらわなくても、誰に認めてもらわなくても、僕にとっては真実なんだ。
2024.11.11 04:41

君が僕の息子について教えてくれたこと

 仕事がら僕は自閉症スペクトラム等々に関心がある。後見人になったら認知症の人だけではなくそのような人々のお世話もすることがあるからである。「君が僕の息子について教えてくれたこと」というDVDを昨日見て大泣きしてしまった。認知症や自閉症、多かれ少なかれ僕にもある。気持ちはよくわかる。自分のことを言ってくれているのかと思ってしまった。なんとも自分自身の人生の縮図でもある。
2024.11.10 03:24

さっそく

 もう時間が僕にはとても貴重なものになっているので、仕事も残したままにするわけにはいかないので土日は返上が当たり前で、また哲学も僕は好きなのでこれを読むかもしれない誰かさんのために残しておいてあげたい。
 さて、デカルトのわれ思うわれありというのはシュールでかっこいいと思うのだがどうだろうか。まあ難癖をつけようと思えばいくらでも付けられるのだが、野暮ったい感じがするがどうだろうか。サルトルなんかノエシスノエマっていって反駁してるようだが、どうも僕には野暮ったい難癖のように思えてならない。そして、これからはノエシスノエマっていう言葉の類は使いません。認識するものと認識されるものは別物ですっていうことだそうです。心理学の言葉らしい。こんな言葉で取り繕うのはむなしい。難癖だって誰でもすぐわかりますよね。カンで。われ思うわれありって難癖付けられない、僕にとって。皆さんはどうでしょう。
 で、これを第一の出発点としたい。それ以外の、サルトルが言ったとか、カントが言ったとか、デカルトが言ったとか、だれだれが言ったとか、そんなビッグネームが言ったとか、それはなしにします。時間の無駄です。自分自身が納得できないことは一応たわごととします。何かの試験で知っていることが得点になるので暗記するという作業はなしです。ここでの議論は得点にならないし、ここは予備校でもありません。時間の無駄です、僕にとって、そしてこれを読むだろう誰かさんにとっても。
2024.11.09 16:38

ウイルス

 おお、早朝から起きてはりきって仕事をするつもりだったのに、脳の中のウイルスが悪さをしてとうとう日中の2、3時間を除いて哲学の本に熱中してしまった。力を込めて読んだのにがっかりの内容だった。デカルトさんの方法序説と省察。われ思う故にわれあり、しゃれていてシュールじゃないか。このこと一点をもってして神や心や物自体の存在を証明するものと期待していたのに。がっかりした。採用できない。承服できない。証明できてないよ、という感想を持った。そこで、その企画、僕が独り相撲で引き継ごうと思う。次回からの後悔日誌は、「われ思う故にわれあり」だけを根拠にして石ころの実在や心の実在、他社の実在、宇宙の実在、その他etc.にまで進むつもりである。神じゃないので、市井の高卒の一凡人の自称哲学者なので、期待は禁物です。まあ、ライトノベル程度のエッセイにすぎません。苦情は受けつけませんので、投稿しないようにね。返事も期待禁物です。本業の仕事もおろそかにできませんので時間をさけませんから。
2024.11.03 06:00

もう辞世の句を


 もう辞世の句を残して隠居してもいいような年齢のように思う。血圧降下剤を飲むようになってガクンとバイタル(生活活性)が落ちた。気力が萎えるのである。で、ここでやり残した知的テーマが残っており、なんとも心残りである。若いころは宇宙の果て、時間の果て、石ころの存在、虚数、そんなものが疑問であったが、哲学や数学、物理学、心理学を経て、なんとなくそんなに疑問に思わなくなった。結論や証明とは程遠いのだが、そもそもが私の疑問なのだから、私がなんとなく納得すれば、それでいちおうはゴールということになる。で、最後に 残った疑問というのが、心である。ひらたく言って、ゴーギャンの”我々はどこから来たのか”という問いです。ま、私の場合、心は何でできてるの?(ロボットにも心はあるのか?)、という問いに置きかえています。おそらく私の人生の最後の問いになると思っています。この道程を子供や孫たちが引き継ぐことになるかもしれないので、道標を残しておこう。DVDを郵送しましょう。毎月1枚くらいのペースで。勉強じゃないので、宿題ではないので、観る義務はないで。いつか観たくなる時に誰かが見ればそれでいいので、ほかさんといてな、その誰かさんのために。ゴーギャンの絵を引き継いだ僕のように。
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